Ⅲ.日本の近代化とアイヌ民族の誇り

 アイヌモシリは1869年から強制的に北海道と呼ばれ、国境内植民地となり、アイヌ民族は独白の生活慣習を禁止され、日本国民化を強制されました。
 「北海道旧土人保護法」はアイヌ民族の保護と救済を名目としましたが、アイヌ民族を「旧土人」と差別的に位置づけたため差別をより強めました。
 大正デモクラシーが高揚すると、アイヌ民族も差別に抗議し、自立の道を模索し始めました。
 1970〜80年代になり、民族の尊厳と先住民族としての権利回復を求める活動が続けられた結果「アイヌ文化振興法」が制定されました。

◇近代国家による同化政策
 函館で戊辰戦争を終結させた政府は、1869年に開拓使を設置し「蝦夷地」を北海道と改称し、クナシリとエトロフの二島を「千島国」として、かつての「松前・蝦夷地」全域を日本国の領域に編入しました。さらにアイヌ民族は、1871年に政府が定めた戸籍に登録され、同化を強制されました。
 これらの政策により、アイヌ民族は土地を奪われ、伝統的民族文化や風俗を権力によりー方的に禁止され、日本国民化を余儀なくされました。

樺太アイヌの強制移住《写真提供:北海道大学附属図書館》
1875年の「樺太・千島交換条約」の締結により、樺太アイヌは北海道に強制移住させられた。
生活基盤を破壊され、民族としての生き方を否定されたアイヌ民族の生活は困窮していった。

◇権利を奪われたアイヌ
 政府は、北海道に移住してきた和人に優先的に土地や漁猟権を与え、一方アイヌ民族には山野の狩猟にも大きな制約を加え、さらにアイヌモシリを収奪しました。これらの政策により権利を一方的に奪われたアイヌ民族は、生活を営むことさえ困難になりました。
 そのため政府は、1899年にアイヌ民族を保護すべき対象とし、救済名目で「北海道旧土人保護法」を制定しましたが、農業や日本語の強制、戸籍編入の際の日本名の強制などはアイヌ民族の伝統的な生活様式と文化の否定につながりました。

石狩国札幌郡対雁旧樺太アイヌ教育場の開校式《写真提供:北海道大学附属図書館》
漁労民族だった樺太アイヌは、開拓使に農業を押しつけられ、慣れない開墾に失敗し、生活苦に陥った。

◇「アイヌ文化振興法」の制定
 戦後、人権が尊重される『日本国憲法』が公布されましたが、アイヌ民族の生活は困窮し差別は強まるばかりでした。
 そのため北海道ウタリ協会(当時)は、1984年、アイヌ民族としての権利回復を前提に、差別の撤廃、民族教育と文化の振興、経済的自立対策など、問題解決のための抜本的政策「アイヌ民族に関する法律」を求める決議をしました。
 そして1997年「アイヌ文化の振興並びにアイヌ民族の伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(「アイヌ文化振興法」)が成立しましたが、この法律は文化振興に限定されていて、生活の向上や先住権の問題など重要な課題が残りました。

先住権を求めて
2007年に「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択されて、日本も賛成するが、政府のアイヌ政策の見直しにおいて先住権は無視されており、
2011年2月、院内集会で旭川と首都圏のアイヌ民族が中心となって国会議員に働きかけた。
「アイヌ政策について考える アイヌ民族と国会議員の集い」の様子

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