Ⅸ.先住民族アイヌの声を発信した人たち

◇社会、政治

萱野茂肖像写真

萱野 茂 (1926年―2006年)
二風谷コタンに生まれる。二風谷尋常小学校を卒業後、造林業、山仕事に従事。1970年代から文筆活動を行い、『ウウエペケレ集大成』『萱野茂のアイヌ語辞典』などを執筆。1975年に平取町議会議員に初当選し、1981年に二風谷アイヌ文化資料館館長となる。1994年、アイヌ民族初の国会議員となり、アイヌ文化振興法成立に貢献する。二風谷ダム訴訟の原告でもある。


◇文化

知里 真志保 (1909年―1961年)
現登別市に生れる。金田一京助の勧めで旧制第一高等学校、東京帝国大学文学部に進学し、アイヌ語研究の道に進む。1940年、樺太庁立豊原高等女学校の教壇に立ち、1947年から北海道大学の教員となり、1958年3月に同大学文学部教授となる。アイヌ民族の立場から『分類アイヌ語辞典』『地名アイヌ語小辞典』等を著す。アイヌ民族の知性の象徴的人物。

山本 多助 (1904年―1993年)
釧路市春採コタンに生まれる。10代からアイヌ民族と周辺北方民族との関りを研究。1957年に「アイヌ・モシリ」を発刊以来、著書は多数。和人による「開拓」を侵略行為とみなし、厳しいアイヌ差別と対峙して、「どっこいアイヌは生きている」「アイヌ民族のことはアイヌの手で」と民族の解放を訴え、多くのアイヌウタリの精神的支柱となった。


◇文学

バチラー八重子
歌人。1884年現・伊達市有珠町に生まれる。本名は向井フチ。後に向井八重子と改名。7歳で英国聖公会伝道師ジョン・バチラーにより受洗。後、バチラーの養女となり、平取などで伝道。アイヌ民族の解放を激しく詠んだ歌が多い。1962年京都にて客死。77歳。歌集『若き同族に』初刊1931年。

違星 北斗  
歌人。1901年現・余市市に生まれる。本名は瀧次郎。アイヌの復興はアイヌの手によってせねばならない、という確固たる信念のもとに活動。1925年、東京に職を得たが、1年半後、「アイヌ一貫同志会」を結成。並行して新聞や歌誌などに短歌を発表し続けた。1929年志半ばにして、死去。27歳。没後「違星北斗遺稿コタン」が発行。二風谷小学校に歌碑が建てられた。

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